家族依存

前にはやし先生も(経済教室で)勧められていた『現代日本の「見えない」貧困』を読んでみる。極めて深刻な議論がされているものの,問題意識が明確かつ分析の言葉が結構平易で読みやすい(自分もそういう文章書かないとなぁ…orz)。最近ちょっと気にしている議論が書かれていたので備忘のためにメモ。

(前略)かなりの比重を持って意識してきたのが,高度に発達した資本主義・市場経済の中に「家族依存」(とくに教育と福祉の領域における)という特質を抱えたわが国の構造であり,そこでの個人の発達と家族の再生産における不平等あるいはその形成プロセスや影響ということであった。(p.243)

貧困層というか,貧困に陥るリスクを抱える層にとって資本主義・市場経済をいわば「乗り切る」ために実は家族という資源を全て投入することになる,という視点は,多くの分析においてあまり意識されないのではないかと思う。特に経済学の場合には方法論的個人主義の前提を取っているわけで,個人の資源を用いてるのか家族を含めた資源を投入しているかを識別することは難しいし,そもそもその必要もないかもしれない。しかしそれこそ方法論的個人主義を基礎とした分析に拠って政策を考えるときには,暗黙的に家族という資源を投入することを前提にしているか,それともそうでないかを識別することは重要になるのではないだろうか。
一方で,家族という資源まで「投入できてしまう」ことは,別の問題を生み出すかもしれない。具体的には個人レベルでは労働力の再生産が困難だったり,そもそも生活できなかったりして続けられない仕事なのに,家族という資源が存在することによって(企業によっては相対的に低いコストで)そういう仕事を続けられてしまうという場面も出現する可能性がある。これは本田先生の本で居郷さんが指摘している問題だと思うわけですが(って本自体読んでないのですが,前に発表聞いた段階では)。
しかしこういう本とか論文読んでると,一般的に気づかれていない重要な問題をきちんと指摘する仕事というのは本当に大事だと思わされる。理論的な穴を追って,データを整理してきちんとした実証論文を書くのは大事な仕事ですが,特に最近の政治学の国際ジャーナルとか,なんか肝心な細部が落ちてる気がしてならない。一般化を志向する以上それは仕方のないことなのかもしれませんが…そう思うのは僕の研究スタイルとして理論的な一般化の志向が弱いから,ということなのでしょうが,まあ個人的にはバランスとって研究したいところです(って在米の留学生の方々からは怒られそうですが,要するに想定しているオーディエンスが違うということなのでしょう)。バランス,っていうマジックワードが一番危険なのかもしれませんが,と反省しつつ。

現代日本の「見えない」貧困 (明石ライブラリー)

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若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

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