行政学的?

先月,S先生と飲み会研究会に向かう電車の中でだべりながら,「この十年くらい行政学は「NPM」と「ガバナンス」でなんとなく食ってきたわけやけど,これからどうするんやろうねぇ」というお話をしんみりと。いまさらNPMとかいっても別にもう何にもNewじゃないし,ガバナンスって言葉ももうそれだけでは何を指しているのかさっぱり,って状況で,ここから先は何かどうでもいい定義争いにしかならないんじゃないかって感じがするわけで…。まあその定義争いに全てをかける人もいるんだろうけど,それもねぇ…。
Lane(2005)は,まあそんな状況の行政学の「契約論的転回」(適当に作った言葉っす)を狙った本なのかもしれない。人によっては別に何も新しいことを言っていない,と理解するだろうし,また別の人からみたらなんだかよくわからないことを延々と書いているだけとも見えるかもしれない。でもまあ僕にとっては,博士課程に入ってからずっと考えていたこととほとんどおんなじで,似たような思考パターンで似たようなことを考える人がいるんだなあ,とちょっと面白かった。

Public Administration & Public Management: The Principal-Agent Perspective

Public Administration & Public Management: The Principal-Agent Perspective

この本がやろうとしていることを一言で言うと,プリンシパル−エイジェント関係の連続として公的組織(Public Organization)を捉えなおす,ということです。その連続というのは,選挙という人々と政党/政治家の間の契約からスタートして,エイジェンシーに雇用される人との契約で終わるプリンシパル−エイジェント関係なわけです。で,多くの場合ブラックボックスとして扱われる,公的組織におけるインプットとアウトプットを繋ぐ関係を,エイジェンシー・モデルを用いて契約という概念で説明しよう,というモチベーションで議論を進めていきます。こういうモチベーションは,僕がこの数年ずっともってる(つもり)なものなので,個人的には非常にしっくりと来て,話もかなり読みやすかった。
ただまあ説明は非常に入り組んでいて,本題に入る前にとても時間がかかるわけです。制度をエイジェンシー・モデルで捉えるためには,前提となる考え方を説明した上でその制度を俯瞰して…って作業も必要だし,民間組織とは異なる公的組織の特徴(ここではRule of Lawが中心)についても結構延々と議論しないと次になかなか進めないわけで。公的組織におけるプリンシパル−エイジェント関係を簡単なゲームのモデルで説明したり,ケルゼンとかハイエクの議論を引きながら,公的組織における法の支配とマクロ/ミクロの合理性の話をしてみたり…。いや,確かに議論を進めるためにそういうの必要だと僕は凄く共感するんですが(たぶん,途中で実証の方に舵を切らない限り,僕も同じようなことしてた),結局のところ,残念ながらこの本でやっているのは実証研究ではなくて,「こういう風に考えたらこんな感じで見えますよね」的な公的組織の捉え方でしかない。具体例はいくつも出てくるのだけれども,その具体例がリサーチプランの中でどういう風に位置づけられているのか,って言う説明が全くないので,単にアドホックな事例でしかなくて,筆者の議論を実証的に補強するものだ,とはやっぱりいえない。そういう(根本的な)問題はあるけれども,この本は結構読まれてもいい本だと思う。少なくとも,若干袋小路気味の行政学に,新しい燃料を投下するくらいの刺激はあるんじゃないかなぁ,と。
この本の主要な敵は,NPM(というかDavid Osborne?)にある。舵取り=意思決定(Steering)と漕ぐこと=サービス提供(rowing)を分けて,政府の役割を舵取りに見出し,サービス提供の民営化や外部委託を進める根拠になってきたNPMは,これまでもRhodesなんかによって,国家の空洞化hollowing out of the statesに繋がるとして批判されてきた。その批判は,サービス提供の民営化や外部委託が説明責任の欠如を生む,という議論が中心で,この本の批判もその流れを基本的には受け継いでいる。*1ただ,以前の批判と確実に異なると思われる点は,政府を中心とした公的組織をプリンシパル−エイジェント関係の連鎖として捉える枠組みの下で,伝統的な行政(Public Administration)とNPMを連続的(同列)に扱い,NPMが,伝統的な行政と同様に非効率をもたらしうることを強調している点にあると考えられる。この本の主張では,長期の契約を結ぶ伝統的な行政は,モラルハザードというかたちで非効率が発生しやすいのに対して(つまりエイジェントの行動が見えない),短期の契約で入札などを通じた競争を重視するNPMでは逆選択というかたちで非効率が発生しやすい(つまりエイジェントの持つ情報が見えない)とされる。
要するに,この本でやっている議論は,これまでのNPMのような,「で,どないすんねん」的なPublic Managementから抜け出して,取引費用の問題を中心にした制度(契約)デザインの議論なわけです,たぶん。その辺は筆者もある程度自覚的で,Public Managementを,法の支配という制約のもとでエイジェントによる執行を通じて政府の政策を達成すること,という風に定義することを示唆しています。で,その個別のマネジメントの中身についてどうやって上手くやるか?という問いから,どうやって非効率性の小さい契約を結べるか?という視点に立ち,何でもかんでも民営化・外部委託すればいいもんじゃないだろ,という議論につなげていくわけです。
そんな感じの本なので,この本が流行れば,行政学における実際の行政の執行を分析にあたって,プリンシパルとエイジェントの間で「どういう契約がなされてきたか」という観点を強く意識させるきっかけになったりするんじゃないかなぁ,と思ったりするわけですが。ただ,やっぱりそうか,と思ったのは,分析に当たってほとんど「政治」というものが出てこないところですねぇ。公的組織をプリンシパル−エイジェント関係の連鎖として見ると,どうしても政党の多数主義をimplyしてしまうところがあるのではないかと思います。もちろん,Lane(2005)もそうならないように,現状維持点を意識しながら,成立しない「マクロの合理性」(ハイエク)とは異なる「ミクロの合理性」を用意しているわけですが,分析に当たっては,「ミクロの合理性」の話はあまり使われてこなかった。たぶん,過程論なんかの実証分析に行こうとすると,こっちの方を開発していかなくてはいけないわけで,分析道具をそろえるところまででものすごく共感できたものの,実際の分析で「あらっ?」って思った原因はその辺にあるんだろうなぁ…。
行政革命

行政革命

*1:『行政革命』を読む限り,ホントはこの辺りにも考慮してると思うんだけど。