頭の運動

大阪に行くときに,ルーマン福祉国家における政治理論』を読んでみる。最近はなんというかベタな議論ばっかりであんまり頭を動かすこともなく,久しぶりにルーマンを読んでみるとちょっと予想以上に負荷がかかってなかなか大変。しかしまあ相変わらず斬りまくる議論は,(まあ「実証」ではないにせよ)読んでいて知的に刺激を受けるような。…まあ僕の理解力が十分とは思えないので,単なる錯覚かもしれませんが。

福祉国家における政治理論

福祉国家における政治理論

やっていることといえば,まず福祉国家というのがどういう特徴を持った時代かということを議論したうえで,システム論の観点から福祉国家における政治システムの特徴について論じ,その政治システムにおいて何らかの選択を遂行する際に政治理論がどういう役割を果たしうるか,というもの。…概略をざっくり書くと逆に何をやってるのかさっぱりわからんような気もしますが。まあ政治理論の役割はともかく,システム論的な観点からみた福祉国家の分析というのは,個人的には興味深かったです。この本の原著自体は1981年らしいのですが,現在の問題を考えるに当たってもそんなに古びてるようには思えないですし。
で,じゃあシステム論の観点からみた福祉国家っていうのがどういうものかという話になるわけですが,大きな話としては次のような感じでしょうか。つまり,近代においては政治システムが全体社会システムの中のひとつの部分システムとして機能的に分化しているにも関わらず*1福祉国家による「社会的包摂」が進行する中で,政治システムにおけるテーマの設定が「環境」を取り込むように開放されているために,政治システムに対する過剰な要求が発生し,それは政治システムを形作る組織(官僚制?)による対応が困難になる。このような状況の中で,政治システムを全体社会システムの中心(あるいは上位システム)として設定するという拡張的な政治理解を採るか,政治システムを政治の機能(=全体に対して拘束的決定を行う)に還元するという限定的な政治理解を採るか,という問題*2,もう少し連続的に捉えるならば,自己言及的な部分システムへの分解による機能の向上という近代固有の原理をどの程度保持すべきかという問題が浮上する,と。まあここで,システムと環境の差異を出発点にするシステム理論的な政治理論が意味を持つはずだ,と続くのかなぁ,と理解しています。いや,「ルーマン読み」でも「ルーマン知らず」なんで,あんま自信ないですが。
こういう話を様々なレトリックや言い換えを使いながら,極めて抽象的にやっていくので,正直なところ筋は追いにくいし,何をいってんのかよくわからないところも多々あります。それでもこれが凄いなあと思うのは,やはりたまに感覚的にハッとさせられるところがあるんだろうなぁ,と。いわゆる「実証」みたいなのは全くなく,ほぼ言い切ってるわけですが,自分で何かを考えるときの取っ掛かりとしてはとても面白い。例えば,法や貨幣(予算)という官僚制が利用するコミュニケーション・メディアの限界は「人の変革」だとか突然出てきて,ちょっと教育がらみの話をするくらいであとはたいした説明もなかったりするのですが,そこから教育・福祉という現物給付みたいな話における官僚制の限界を考えて,「より近い」地方政府の役割はどうなりうるのか…とか自分が普段考えているような問題を,派生的な問題として考えることができるのではないかな,と。もちろん「人の変革」という話をほんとのところルーマンがどういう風に考えていて,っていうのはこの本だけではあんまりよくわからないので,そういう思考の筋道が良いのか筋悪なのかはわかりませんが…。ってなんだか若干経典みたいな感じもしますが,実際そういうところもあるのかも,なんて。

*1:そのために,政治システムは他のシステムと同様に自己言及的な閉鎖性を持つ

*2:言い換えると,<全体社会システムを組織システム化する>のかあるいは<全体社会システムと組織システムの区分を維持する>のか,という感じでしょうか。