首都の議会

北海学園大学の池田真歩先生に『首都の議会』をいただきました。どうもありがとうございます。私自身は特に明治初期の政治史について詳らかに知っているわけではありませんので、決して良い読み手であるとは思えませんが、本書を非常に興味深く読むことができました。歴史の研究でありつつ、どのように議会を作るか、代表を選ぶか、その中で政党というものにどのような位置づけが与えられるか、といったテーマについて普遍的な問題提起がなされているように感じるところです。

あくまでも類推的な理解でしかありませんが、1章で扱われている、初期の産業関係の人々が集まった会議所は、ちょっと前のイギリスのReginal Development Agencyの設立を思わせるものがあり、公的代表性を欠くとして批判されて実質を失っていくようなところにも同様の困難があるように感じます。おそらく本書のメインである4・5章では、区という地域レベルでの動員が政府・府当局を凌駕する一方で、そんな区との対立を抱えながらも星亨を中心に自由党が東京の利益を組織化して積極主義に転じていくダイナミズムが描かれていて、非常に興味深いものでした。終章で示されているような、通俗的な理解――政党をある種の「政治ゴロ」としてとらえるもの――ではなく、一定の政治的・社会的要請のもとで生まれていて、その政治指導がいわば近代への道を開いた、というような見方は説得的だと感じます。おそらく本書で示されているように、そのような政治的・社会的要請と政党の応答という問題が、必ずしも貫徹していないことが、現在に至る地方レベルでの政党の存立の困難、そして東京の場合は「遊興」(by金井先生)とも呼ばれるような振る舞いの背景にあるような気がします。

個人的には、地方自治における政党政治への警戒のような感覚についても、本書から学ぶことが多かったと思います。政治じゃないというか、ある種の経営(事業を起こすこと)を重視するならば政党の存在というのは望ましくないという感覚はそのひとつかもしれません。本書で議論されている、水道や鉄道は典型的にそういった経営の対象になるものだと思いますし、初期の議会ではそういった事業が問題になっていたことと、政党の忌避はある程度結びついているのかもしれません(もちろん官僚的なレトリックも大きいと思いますが)。ただ、そういう感覚をもとに、経営には政党を立ち入らせないという可能性があるとしても、そうであれば制度的な前提として事業を政治と切り離すことも必要だろうとも感じます。現代的な文脈で言えば、自治体を特定目的にするか事業を委譲した企業に全面的にゆだねるか、という感じでしょうか。私自身は、現代政治の文脈では地方政治も民主主義を実践するならば政党政治は不可避だと考えていますが、最近の研究はもっぱら同時に国と自治体の(融合と対する意味での)分離や事業の企業化・その自律性の向上に関心が向いていて、そういう関心の持ち方もこのあたりにルーツがあるのかなと感じました。

以前から池田先生が書かれたものを読ませていただく機会があり、本書の出版もとても楽しみにしていました。実は、感想をお送りしたりしている中で、自分が10年前に池田先生の論文についてツイートしていたという話をお聞きして、確認してみると、関心を持って読んでいるところがあんまり変わっていない、ということはちょっと驚きました…。10年って長いわけですが、そういうのでもやっぱ記録として残るんですね…。